さわやか次郎の「生活巧者」ブログ〜50歳で引退〜

50歳での引退を目指し日々の生活を有意義にそして賢く生きるために実践している日常を綴ったブログ。節約・倹約・投資・小遣い稼ぎ・時間の使い方・家族との関係など

悟りとは「無分別な生き方をする」ということである。(書籍からの引用)

書籍からの引用ですが、

共感するところがあったので、

ブログで記録しておきたいと思います。

 

中略や要約を含みます。

 

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ある禅問答、

(その1)

 ある僧が、

 「私はこの道場に入ったばかりの新米でございます。

  ひとつ尊いお示しをいただきたいと思います。」

 すると和尚が、

 「朝飯はすんだかい?」と言った。

 「はい、いただきました!」と僧。

 「それでは茶碗を洗っておきなさい。」

 

(その2)

 ある僧が、

 「仏とは、いったいどのようなものでしょうか?」

 すると和尚が

 「仏か。仏とはここにある麻三斤」

 

ここに例として出した禅問答は修行僧を悟りに導くために

気づきを与える問答だが、

一般の文章として素直に意味がとれるものではない。

 

悟りの状態について、

それは、価値判断と相対性からの徹底した脱却である。

 

ふつうの生活において、わたしたちはたいていの場合は、

損得勘定、利害関係、慣習、社会的規範、善悪の分別、

いっときの感情に動かされている。

それが分別のある大人の生き方だとされる。

 

しかし、悟りの道を往くというのは、無分別な生き方をするということなのだ。

この場合の無分別とは、価値判断と相対的思考をしないという意味での無分別。

 

先の例では「仏とは麻だ」と、

たまたま和尚の作務に用いていたものが三斤の麻であったが、

もしそれが薪であれば「仏とは薪だ」と答えることになる。

 

好き嫌いという感情を捨て、損得を捨て、こっちに比べてあっちがどうのという

比較や相対的な考え方を捨てる生き方。

 

飯を食ったら茶碗を洗うという日常の事柄のひとつひとつが

この上なく大事なものとなる。

 

若い層は和尚が何か今まで秘められていた悟りへの道を

教えてくれるのではないかと期待していたのだが、

そういう特別な秘法があるのではなく、

今をキチンと生きることの大事さに気づいてほしいと

眼を開いたのである。

 

多くの人は、

成功や勝利や蓄財を確実にするためのハウツーが

必ずどこかにあるはずだと思い込んでいる。

 

その心底には、自分だけは多く持ちたい、自分だけは得をしたい、

という強い気持ちが横たわっている。

 

そういう競争や力や策略によって左右される持ち物の多寡で

地位だの暮らしだのが決まるようなでこぼした社会ではなく、

みんなが本当に平等であるようなフラットな平和を

ブッタは目指して仏の教えを広めようとしたのだ。

 

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